Tシャツの歴史
-日本におけるTシャツの普及-

今や私たちの日常と切っても切れない存在となったTシャツ。
第2回は我が国日本にフォーカスしてその歴史を紐解いていきます。

第二次世界大戦後、Tシャツが認知

日本国内では、Tシャツはジーンズと同様に第二次世界大戦後の占領期に少しずつ知られるようになりました。

日本ではもともと、明治時代から綿のメリアス肌着が生産・輸出されていました。
当時のメリアス製品は肌着としての役割のみを持っており、アウターとして着用するという発想はありませんでした。スタイルも前開きや首回りが深めのタイプがほとんどでした。

しかし、戦後の占領期、繊維製品は政府の統制下におかれ、GHQの方針に基づくものでしか生産できなくなりました。 そこで、アメリカを含む輸出先の需要に合わせた丸首シャツ、現在のTシャツタイプの製品が製造されるようになったのです。

一方、強く前向きに生きようとした若者たちは、まだまだ戦時の傷跡が色濃く残る中、少しずつファッションへの関心を高めていきました。

1950年代には「ニュー・ルック」「太陽族」「ロカビリーファッション」といったさまざまなファッション用語が広まり、それらはファッションだけでなく社会現象としても評されるようになりました。

また、日本に駐在するアメリカ兵やその家族のTシャツ姿は、占領下の日本人にとっておしゃれなものとして感じられていたのでしょう。
1950年代ころから、Tシャツをファッションアイテムとして着用する風潮が若者の間で広まりました。
Tシャツの歴史①」でも挙げた、1950年代のハリウッド若手俳優により築かれたかっこいいTシャツのイメージも後押しし、ファッション雑誌などの中で「Tシャツ」という言葉が一部で使われるようになり、アウターとして着用することが広まりつつあったのです。

国産のアウター用Tシャツは1951年ごろに日本の有名アパレルメーカーが最初に作ったと言われています。
1950年代の後半には、数々のファッション雑誌で、ボーダーTシャツやペイントTシャツ(手書きでイラストを描いたと思われる)などが掲載されるようになります。

これらの流れを受けて、「落書きルック」と呼ばれたプリントTシャツとジーンズの組み合わせが一部で流行し、綿Tシャツに自分たちで落書きをしたり、染めたりしてそのスタイルを広めていきました。
「ヒッピー」「モッズ」「アイビー」といった多様なスタイルが流行し、この頃にはおおよそ現在のコーディネートの基礎が固まったと言われています。

また、60年代は音楽や思想が色濃くファッションに影響を与えた時代でもありました。
しかしながら、本格的にTシャツが大ブームになるのはもう少し後(1970年代)の話になります。

日本のTシャツブームのはしり~プリント用ボディとしてのTシャツ

1970年代、日本のファッションは実にバリエーション豊かな時代へと突入します。
世界でも活躍する日本人デザイナーが数多く誕生し、数多くのコレクションを発表しました。
それらのコレクションの傾向として、当時、根強い人気を博したのが「ロゴTシャツ」です。
大きなロゴがセンターにプリントされたTシャツが街中に溢れました。

また、1975年、ベトナム戦争が終結したことによりアメリカに大勢の若者が戻ってきました。
彼らは日常生活を満喫するために、ジョギングやテニス、スケートボード、サーフィンなど様々な遊びを楽しみました。

もちろん、日本でもそれらアメリカサブカルチャーの流れを受けて「西海岸カルチャーブーム」が訪れました。
1978年に創刊された西海岸カルチャー情報誌も時流を後押しし、サーファーブランドが一世を風靡。
サーフ系ブランドのロゴがプリントされたTシャツやトレーナーが大流行したのです。
こうして、1970年代にはメディア主導のファッションブームが生まれました。

1980年代に突入し、新たなファッションブームが訪れます。
デザイナーズブランドやキャラクターズブランド(通称DCブランド)、Tシャツやポロシャツ、ジーンズにチノパンといった渋カジが流行。カウンターカルチャーとしてのストリートファッションが広まりました。

一方、80年代初頭には、日本の貿易会社がアメリカブランドのTシャツの並行輸入を開始。
しかし、当時の1ドル=約270円という円相場は、Tシャツを輸入するにはあまりにも高額であったため、この頃より日本のアパレル企業がTシャツの中国生産を開始しました。

このことが、日本における「プリント用ボディ」の先駆けであり、今日のプリント用ボディのマーケットを作った黎明期と言っても過言ではありません。
そして1989年、前述の貿易会社がアメリカブランドのTシャツを取り扱っていたそのノウハウを活かして、日本で初のプリント用ボディブランドを立ち上げたのです。

U.S.プリントボディ最盛期と中国製プリント用ボディの台頭

1991年のバブル崩壊により、80年代の派手な雰囲気が影をひそめ、90年代はTシャツやジーンズといった活動的でカジュアルなストリートファッション(裏原系ファッションやヒップホップファッション)やグランジファッションが好まれるようになりました。

この頃、カジュアルウェアにおけるナショナルブランド(商品を製造するメーカーによるブランドで、商品の企画から製造までをメーカーが行うもの)やキャラクターのライセンスビジネスが浸透し始め、クイックな対応が可能なプリント用ボディが認知され始めます。
当時Tシャツとして大ヒットした某キャラクターTシャツには、そのベースとしてアメリカブランドのプリント用ボディが使用され大ヒットしました。

90年代半ば、円高基調が後押しし、多くの企業がアメリカのプリント用ボディブランドを輸入し始めました。
中でも、日本人の体型にマッチしたサイズ感と、P.F.D.(後染め対応モデル)ボディをいち早く展開したアメリカのボディブランドがアパレルを中心に急激に販売数を伸ばしたのです。

90年代後半には、「チビT」と呼ばれるぴったりとしたTシャツが若い世代で流行。
また、プロレスファンの間で人気を博したオリジナルTシャツなど、Tシャツブームはピークに達しました。
そんな中、現在では衣類の小売店舗を全国に展開する大手アパレルメーカーがフリースを中心にブームを起こし、一般消費者に「中国製」の認識を変える大変革を起こします。
それまでの中国製のイメージは、「下着」「安物」といったもので、そのイメージを払拭するこの出来事には同社の偉大なる功績が背景としてあるのです。

同時期、アメリカにおいてプリント用ボディの価格競争が激化し、各社こぞって生産背景を一斉に本国から中南米にシフト、管理面の問題から品質の劣化が起こるという事態が発生しました。
この競争により、多くのボディブランドが淘汰され、日本においてもアメリカブランドのボディから中国生産のプリント用ボディへと変化していきました。

この流れを受けて、1998年、わたしたちキャブ株式会社でも無地Tシャツブランド「United Athle(ユナイテッド アスレ)」の展開を開始。
“Made in U.S.A.”の品質を超えるTシャツを、よりリーズナブルな価格で供給するために、中国生産を行いました。
今ではUnited Athleとして展開しているアイテムは中国だけでなく、東南アジアや南アジアでも生産を行っています。中国生産を開始した当時の知識や技術が基盤となっているのです。

我が国日本でもTシャツは、その時々の時代背景や経済状況、トレンドなどから、役割、素材やデザイン、アパレルメーカーの勢力図までをも変えながら普及していきました。

今後も時代の流れとともにさらなる変化が待ち受けていることでしょう。
私たちキャブ株式会社では、いつの時代も皆様に愛されるTシャツを提供できるよう、努力を続けていきます。

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